BLOWN UP CHILDREN

2週間ほど、訳あって熊本に帰省していた。

僕はこの晩白柚東京譚に暗い話を書くことを避けてきた。4年の執筆のうちあとの2年はそれが顕著で、旅に出たとか美術を鑑賞したとか、文化的活動について記録したのがほとんどだった。それはわずかながら存在するこの日記の読者を、ネガティブな発言を見せることで不快な気分にさせるのが心から嫌だったからである。

しかし書かねばならない。こうやって向こう2か月、仕事を休むこととなってしまった今、もはやこれについて触れずに晩白柚東京譚を続けることは、僕にはできない。

僕は「うつ病」という病に侵されてしまった。

発端は昨年2月だった。1月下旬の仕事が一段落して、帰宅できる時間が少しずつ早くなり、これから英気を養おうとしていた矢先である。仕事の電話で、相手の喋っていることが急に理解できなくなった。電話の向こうで相手がつらつらと言葉を並べている。その言葉が、片耳から入って頭の中でなにも処理されないまま、片耳から抜けていく。言葉を処理しようとするが、頭の中は真っ白である。額から冷や汗を滴らせ「すみません、またご連絡します」と電話を切るしかなかった。

耳がおかしくなったのだろうかと、耳鼻科に行ってみた。ひと通り検査をしたが、結果は正常。耳の異常は疑われないので、精神科へ行ってみてくださいと告げられた。

そうして今日も通っている心療内科を訪れたのが昨年3月6日。「葉隠」の記事を書いた日である。この日僕はうつ病だと診断された。

仕事が落ち着いた時期にうつ病を患うというのは奇妙だが、僕が絶対の信頼をおく海老原先生は、おかしな話ではないと言った。東京に来てから約3年間、激務で働き詰めだった。その間ずっと張り詰めていた心がここに来てふっと緩み、その瞬間うつの波が押し寄せて肉体を直撃したのではないか。

海老原先生は休職を勧めてくださった。しかし職場の人間に「あいつはうつ病だ」と色眼鏡で見られたくなかった僕はそれを拒み、職場にこの事実は伏せて、服薬しながら仕事を続けることを選んだ。

抗鬱剤との付き合いというのはなかなか難しいものがあった。僕は薬が効きすぎて、副作用が激しく現れてしまう。

まずベースとなる抗鬱剤としてアモキサンを飲んでいるが、大便がまったく出なくなるので、酸化マグネシウムをいっしょに飲んで便を柔らかくしなければならない。また、アモキサンとともに飲む副次的な抗鬱剤、これが非情に厄介だった。ミルナシプランは小便がいつまでも切れない。リフレックスは体重が異常に増える。今年はじめの日記で「体脂肪率が25%を超えている」と書いた。これは2月までリフレックスを飲んでいたためだ。3月からはサインバルタという薬を飲んでいるが、おかげで射精障害が生じている。

昨年3月の診断から丸1年、職場のトイレで隠れて薬を飲んだりしながら、うつ病であることをひた隠しにしてきた。しかしこの3月、仕事の山が再びやってきた時、僕の中でなにかがぷつりと弾けてしまった。

3月16日、無断欠勤をした。朝から金縛りにあったように体を動かすことができず、職場からの鳴り止まない電話に応えられなかった。「頑張る」という気力が1ミリも湧いてこない。もう自分はだめだ。それから2、3日出勤しては欠勤するという日々が続き、ついには海老原先生から休職するよう宣告された。

3月末の怒涛の仕事をすべて同僚に任せ、2か月の休職届を提出し今に至っている。2か月休んでなにが変わるかわからない。うつ病が治る保証はどこにもない。しかし僕はもう仕事を放棄した。僕に必要なのはただただ休息だけなのである。

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