帰ってきました

9月28日のお昼12時ごろ、無事自宅に帰ってきました。総走行距離1595.6km、22日に及ぶ、本当に本当に長い旅でした。道中もちろん嬉しかったり楽しかったことがありました。しかしそれを大きく上回る量の辛いことが待ち構えていました。また色んな人と出会い、励まされました。友達からの励ましの電話やメッセージもたくさんもらい、本当に感謝感謝の旅だったと思います。あったことをすべて書きたいのですが、もはや多すぎて書けないので、大まかなトピックに分けて、思い出しつつ書いていきたいと思います。

小倉の夜:最も励まされ、最後までやろうと思った(1日目)

初日のことです。福岡から小倉までは大体70〜80kmあって、自転車で7時間ほどかかりました。出発する前の僕は「7時間淡々と自転車を漕ぐ」ことがどれだけキツいことか考えておらず、実際に小倉駅に着いた時は「こんなのがあと2、3週間も続くのか」と思ってゾッとしてしまいました。しかも小倉駅に着き、ヘトヘトだったので銭湯にでも行こうと自転車を方向転換しようとした瞬間、後ろの荷物が崩れ落ちて後輪に勢いよく当たり、もの凄い音を立ててパンクしてしまいました(実際はチューブに穴が開いたというわけではないので、パンクとは言えないかも)。自転車に乗れなくなり、自転車を押しながら途方に暮れたのを思い出します。僕の横を通り過ぎていく多くの人(駅前だけに)と、夜風(この日は出発が遅かったのでその頃は夜の10時を過ぎていた)が実に冷たく感じました。誰もいない公園でコンビニ弁当を食べて、0時過ぎまでタイヤをいじりました。初日でヘトヘトなのにいきなり手を真っ黒にして修理している自分がすごく悲しく思えました。多分この時が、いきなりですが「もうやめたい」と思った時です。
ようやく修理を終えて、銀マットを地面に敷いて横になりました。しかしかなり疲れているのに、まったく眠れません。後々慣れるのですが、この頃は野宿に不慣れで寝付けませんでした。しばらく寝返りをうっていると、「すみません、一緒に寝させてもらっていいですかね?」という声。旅行中風の、男性と女性の2人でした。2人は新幹線の中で知り合ったということで僕達3人は完全に見知らぬ同士。男性は29歳で、会社を辞めて各地を放浪しているという方。旅も慣れているらしく、野宿も何度もやったことがある、ということで、3人の中で唯一寝袋を持っていました。女性の方は大学4年生で、列車で各地をまわっていて、今日だけ寝床がないので野宿することにした、ということでした。僕の予算や予定を聞いて、男性の方は何度も「いや〜バカだね〜、ま、若いっていいよね〜」と繰り返していました。
談笑も程々に、男性の「皆出発の時間が違うだろうから、起きた人から何も言わずにここを出て行こうよ」という言葉とともに皆横になりました。しかしそれでも僕はなかなか寝付けず・・初日の睡眠時間は2、3時間ぐらいだったと思います。僕が起きたのは翌朝7時過ぎで、周りを見ると2人ともいなくなっていました。ささやかな付き合いだったな、と思いつつ僕も出発の準備をしていると、自転車のサドルの上に1冊の文庫本が置いてありました。そしてその本のカバーには、「プレゼント なぁに、気がつきゃ東京に着いてるさ!!ガンバレよ!!若者!!!カッコいいぜ!!!」と書いてありました。見知らぬ人と出会い、プレゼントとともにこういった言葉をかけてもらったことは、初日でいきなりやる気をなくしていた僕を大いに励ましてくれました。正直、この本を手にして僕は半泣きになりました。この時、意地でもこの旅を最後まで終わらせてやる、と心に決めました。以降この本は僕の旅のお守りでした。
ちなみに本は寺山修司著「ポケットに名言を」です。

徳山の朝:人の親切に触れまくる(4日目)

3日目の夜は山口県の徳山にある公園に泊まりました。ちなみに2日目は阿知須というところに泊まったのですが、これが海の近くでシャレにならないぐらい寒く、銀マットだけで旅を続けるのは無理だと悟りました。そして3日目に某ホームセンターで寝袋を買い、以降は寝袋で野宿をしました。4日目の朝、起きて地図を眺めていると、公園の隣にある団地からおばさんが声をかけてくれました。福岡から自転車で旅をしているんです、と言うと、おばさんは家からクリームパンやヤクルト、みかんジュース、さらにはぶどうまでくれました。普段なら、いえいいですよ、と断るところですが、結構お金に困っていたので、すみませんありがとうございます、とありがたくいただきました。また、荷物をまとめて出発しようとしている時、別のおじさんにも声をかけられ、彼のお孫さん(大学生の女の子だということで、話が合いました)の話や、この先の道のきつそうな所、選んだ方がいい道などを教えてもらい、かなり助けになりました。旅を通して食べ物をもらったりするほど親切にしてもらったのは徳山だけなので、よく覚えています。

尾道の夜:知らない人とメシを食う(6日目)

元々6日目は広島県の三原に泊まる予定だったのですが、三原に銭湯が見つからなかったのと、もう少し移動する時間があるということでさらに自転車を漕いで尾道まで行きました。尾道で早速銭湯に行くと、僕と同じく大荷物の人が(彼は巨大なリュックサック)。孤独な旅が続いていると、やっぱり人と話したいものです。というわけで「旅行中の方ですか?」と声をかけ、意気投合。彼は千葉の大学生で、友達と車で旅行していて、1日前から1人旅をしているとのことでした。尾道に来たからには尾道ラーメンを食べたいと思っていたところ、彼も尾道ラーメンを食べようとしていたらしく、一緒に尾道駅の近くにあるお店に食べに行きました。全然知らない人とご飯を食べに行くというのはかなり貴重な体験になりました。自転車の旅頑張って!と励まされ、握手して別れました。
ちなみにこの日は東尾道の公園で野宿しようとしたのですが、寝ている途中で雨が降り出して野宿ができないという事態に。野宿をする上で、誰かにからまれるんじゃないかという不安はほとんどなくなったのですが、むしろ雨が降るんじゃないかというのがかなりの不安でした。誰もいない暗い公園、それに雨が降ると急激に怖くなってくるのです。この日から雨が降ることに相当ビクビクしていました。また、ネットカフェへ移動している時に、1日目の夜にも起こった例のパンクっぽいやつになり、雨の中タイヤの修理をしてこれまた泣きそうでした。

京都滞在:I君ありがとう(10〜12日目)

京都がだいたいこの旅の中間地点ということで、これまでの日記にも何回か登場している、京都のI君の家に泊まらせてもらえないかお願いしました。広島を走っているあたりから膝がかなり痛み始めたのでその療養と、僕がちょうど出発した頃に発生した台風13号がいよいよ九州に上陸し始めたので、今後の天気の様子を見る目的も兼ねてます。I君は高校3年の頃に同じクラスでしたが、むしろ予備校で同じクラスだったので仲良くなった男の子です。京都に着いた夜、僕は相当お腹が減っていたので、独断と偏見で鍋をお願いしました。水炊きをやってもらったんですが、味ぽんの中に大根おろしを入れるという僕としては全然聞いたことのないやり方で、これがなかなか美味しく、僕は「I家流や」とか騒いでいました。
京都2日目は四条河原町の方へ連れて行ってもらい、錦市場や高島屋を見て回りました。錦市場は食べ歩きすると絶対に楽しいだろうなあ、お金がなかったのでコロッケしか食べませんでしたが・・。帰りに京都市役所の隣にある喫茶店で巨大オムライスを食べました。このお店はそのオムライスで有名らしく、オムライスを頼んでいる人が結構いました。しかしそのオムライスの量がかなり半端なく、食べ盛りの僕達でも「結構まじで吐きそうや・・」とか言いながらようやく食べきりました。オムライスを注文した他の人を見てみると、案の定半分ぐらい残していたり。確かに美味しいけど、淡泊な味があれだけ続くとなかなかきついものがあります。
また、I君には毎朝お手製の朝飯を作ってもらって嬉しかったです。と言ってもご飯と味噌汁なんですが、なかなか美味しい味噌汁でした。約2日間、本当にI君にはお世話になりました。

台風がやってきた(13日目)

僕がこの旅に出た頃には遠い南の空にあった台風も、ついに東日本へ。台風との戦いが始まります。京都を出たあたりから不安定な天気が続き、13日目には僕は名古屋に向かい、そして台風も愛知へ向かう恰好でした。雨の中自転車を漕ぐのはなかなか体力を使いました。突風が吹くと、あおられてなかなか自転車が進まないんです。また、僕が買った雨合羽が安物だったからか、普通に水が中に入り込んできて、シャツがびしょ濡れになるという事態に。ずっと着ているとだんだん寒くなり、「やばい、このまま濡れたやつを着てると確実に風邪引くわ」と思い、2、3回はシャツを変えました。雨が降ることでブレーキが効きづらくなり、危ない目にあったのも数回。ただ、救いだったのは雷が全然鳴らなかったことですね。

富士川楽座:富士山を眺める(16日目)

台風が過ぎ去った後もなぜか天気が不安定で、雨に悩まされ、かなり疲れがたまっていました。名古屋を出てからは、旅の中で勝手につけた名前ですが「チャリ漕ぎたくない病」にかかっていました。自転車を漕いでいる時の周りの風景も全く楽しくなくなり、時に上り坂でもないのに自転車が進まなくてかなりイライラしたりしました。この頃は「あともう少しで富士山」という思いだけで淡々と漕いでいた気がします。
そして16日目、ようやく目的地に到着し、富士山を見ることができました。やっと見られた富士山は、でかい山がぬっと生えている感じで、良く言えば神々しく、正直に言えば不気味でした。しかしそれほど富士山は人の心を惹きつける何かがあると感じました。16日目の夜は道の駅富士川楽座に泊まり、17日目の朝は5時過ぎからずっと富士山を眺めていました。もう満腹だという程に見ました。昨日も今日も全く変わらない富士山がそこにあって、恐らくは江戸時代も、それよりもっと昔も同じ姿で富士山はそびえ立っていたのでしょう。そう思うと、不動の富士山に、自分の存在の小ささがいっそう対比されます。ただ、その日の日記に「俺が3回ぐらいジャンプすれば富士山に届きそうなのは気のせいだろうか?」と書いたのは、ここまで自転車でやって来た自分に自信があったからだと思います。

2つの峠:拍子抜けした鈴鹿峠と死にそうになった箱根峠(13/17日目)

この旅に出る時、気がかりだったのが鈴鹿峠と箱根峠です。箱根峠は標高846m、「国道1号最大の難所」と言われ、一方鈴鹿峠は標高357m、「箱根峠に次ぐ国道1号の難所」と言われている(らしい)。鈴鹿峠を登った13日目は、上にも書きましたが台風と戦った日で、ザーザー降りの中登っていました。自転車がスリップしないか、はたまたトラックがスリップしてこないかといった不安もありました。しかし滋賀県側から三重県へ行く場合、案外勾配はきつくなく、「あら、もう終わり?」といった感じでした。むしろ下りが爽快だったので、三重県側から滋賀県に行く場合がきついのでしょう。
ところが箱根峠がそうはいきませんでした。たくさんの荷物を抱えた自転車を漕いで登る体力が元々残っていなかったので、早々に自転車を押して登り始めたのですが、標高846mというだけあって、どれだけ登っても終わりが見えません。勾配もなかなかのもので、自転車を押しているにもかかわらず体力が全くもたず、20mほど進んでは休憩、20m進んでは・・の繰り返しでした。汗の量も半端なく、水をがぶ飲みしていました。救いだったのは、上から降りてくるサイクリングの人々。この旅を通してそうだったんですが、サイクリングをしている人同士が出会うと、なにか仲間意識が生まれます。僕がきつい顔をしながら自転車を押していると、降りてくる人達が手を振ってくれるんです。これはかなりエネルギーになりました(逆に、まあ仕方ないんだけど、全然苦労なしにブイーンと登っていくバイク達には、殺意が芽生えました)。そして約3時間の戦いの末、ようやく頂上へ。もう足ががたがたでした。この時の達成感は、正直言って数日かけて富士山を見た時並でした。ただ、この後一旦下り坂が続くのですが、もう1度国道1号の最高点(874m)に向けて上り坂が始まり・・この時は半泣きでした。「もう足ぼろぼろなのに、また・・」といった感じで。どうしようもなくひたすら自転車を押し続け、なんとかこの地獄を切り抜けたのでした。また、この日は後にある部活の合宿に間に合わせるため2日分の距離を漕がねばならず(140km)、箱根峠に加えこの距離は旅の中で最も僕を苦しめました。

東京到着:ひたすら檸檬のお世話に(17〜19日目)

140kmを走破し、東京八王子に着いたのが夜10時半過ぎ。東京では檸檬の家に泊まることにしていたので、彼に迎えに来てもらいました。往路として、ついにゴールを迎えることとなりました。その日の夜は偶然にも京都の夜と同じく鍋が用意されていました。しかし檸檬はいろいろと手慣れていて、まずビールとツマミの漬け物を出してくれて、本当に最高でした。あの時のビールの味は忘れられません。檸檬は既に大学が始まっていて、朝〜昼は授業でなかなか遊べなかったのが残念。東京2日目の夜は、この先あるかどうかわからない驚きの企画をやりました。それは「僕・檸檬・へきゆんで飲む」というものです。へきゆんが何度か「東京に着いたら連絡してよ。飲みに行こうぜ」と言ってくれていて、へきゆんと飲みたいが、しかし檸檬はどうしようと考えていました。すると檸檬が「3人で飲めばいいたい」と提案。実は檸檬とへきゆんは小学生時代、檸檬が転校するまでの間同じ部活に入っていたことがあって、少なからず縁があるのです。へきゆんに電話すると彼もそれを承諾し、高幡の飲み屋で3人で飲みました。まあ、それなりの盛り上がりだったのではないでしょうか。飲んだ後は3人で2時間程カラオケにも行きました。もうないであろう、貴重なカラオケでした。ちなみに飲み代もカラオケ代も2人におごってもらい、本当に感謝でした。

衣:服を変えないのが当たり前

基本的に服はお風呂に入る時に着替えていましたが、当然ですが毎日お風呂に入ることはできません。なので2日連続で同じ服を着たりすることも多々ありました。中でも名古屋市から静岡市へ向かった時は、お風呂になかなか入れず3日間同じ服で過ごしました。しかしもう慣れてしまったのか、たいして気にならず・・。コンビニとかに入った時は、周りの人は「えっこの人・・?」とか思ったことでしょう。また、服を変えないので洗濯物がたまらず、コインランドリーにもなかなか行きませんでした。広島の原爆ドームに行った時に出会った男性(彼も学生の頃自転車で旅をしていて、僕の自転車を見て懐かしく思い声をかけてくれました。自転車の旅に関するいろいろなアドバイスをもらいました)は、その時僕がコインランドリーに1回も行っていないということにかなり驚いておられました。ちなみに台風の中を走った時に靴がびしょ濡れになり、それが乾かずに正直かなりの臭いを発していて、名古屋のコインランドリーで靴を洗うことにしました。そこで裸足でいると、オーナーのおばさんに靴をもらってしまい、それからは福岡に戻るまでずっともらった靴を履いてました。

食:めちゃくちゃな食生活

自転車を1日に8・9時間も漕ぐと、3000kcal近く熱量を消費するそうです。その分お腹の減りようが半端なく、1、2時間毎に休憩でコンビニに寄る度に何か食べていました。特に糖類がすぐにエネルギーに変換されるということでお菓子、特にチョコレートやアイス(アイスは本当に頻繁に食べてました。1日に3個ぐらい食べていた日も)はよく食べたなあ。どうでもいいですが、九州で超メジャーなブラックモンブランが安いのでよく食べてましたが、確か広島に入ったあたりから見なくなってかなり残念でした。また、旅の中でかなりはまったのがマックのポテトです。最初はネットカフェに入る前の時間調整と晩飯を兼ねてマックに行ってました。ところがマックのポテトが異常に美味くて、旅の途中からはセットを注文する時にはポテトをLサイズにしてもらわないと気がすまないぐらいになってました。正直今もマックのポテトが食べたいです。
旅をする中で段々体質が変わったのか、最後の頃は、例えば朝7時におにぎりを3つ食べ、2時間してまたおにぎりを2つ食べ、ちょっと漕いでまたパンを2個食べたり・・とにかくすぐ腹が減る体になってしまいました。帰ってきた今でもすぐに腹が減って何か食べてしまうので、食費に結構困っています。

住:だいたい半分は野宿

出発する前から無謀だなとは思っていたのが、予算的に1日1500円しか使えないということでした(実際は少し余裕があって、たまにネットカフェに泊まったりする時はそこから出していました)。食費に1000円、お風呂代に500円をまわすと、宿代がありません。なので半ば強制的にこの旅の中心は野宿でした。上の4日目の記事とダブりますが、最初は銀マットを持って行ったのですがこれだけだとかなり寒い。阿知須に泊まった時は本当にがたがた震えながら寝たのを覚えています(というか寝られなかったんですが)。そこで次の日に寝袋を購入、これがなかなか暖かくて、以降なくてはならない僕のパートナーになりました。しかし寒さの他にも、土砂降りの雨の隣、絶えず乗り入れるトラックの隣、車のエンジンをガンガンふかす集団の隣など、なかなか快適とは言えない環境で寝なければならず、大変でした。

吉井和哉のWINNER

出発する時、やっぱ退屈するといかんなということで何枚かMDを持って行って、その中でも吉井和哉の「Hummingbird in Forest of Space」というアルバムをずっと聞いていました。このアルバムに「WINNER」という曲があるんですが、詞がまさに「自転車で旅に出た僕を励ますために作られたんじゃないか」というような内容で、頻繁に聞いては励まされていました。元々の詞の内容は、辛い局面にある人を励ますようなものですが、「高い高い山をどうか乗り越えられますように」、「走れこのままじゃ何も変わらない」、「強い強い風をどうか(略)いつか笑い飛ばせますように」、「走れ止まらずにこらえるんだWinner」等、自転車を漕ぐ場面に重なり合うのです。とりわけこの旅ではかなり多くの山や坂道が現れて、僕はそれが長い距離を漕ぐことよりも嫌だったので、この曲を聴いては、頑張って乗り越えよう、と思ったものです。
曲中に「本当の敵は自分の中にいる」とあります。辛い時にあきらめようとする自分が僕にとっての敵でした。最後まで完走できた僕は勝者になれたんじゃないかなと思っています。

恐怖のパケット代

どうでもいい話ですが、この旅では画像つきのメールで日記を更新したり、携帯のナビアプリを使いまくったり、銭湯や温泉を検索したり等、かなりのパケットを使いました。その量がどれだけかというと、パケット代が約13万円にものぼります。僕はパケット代が定額になるようにしているので、実際は5000円ぐらいしか払わなくていいのですが、この旅でどれだけ携帯に頼ったかがよくわかりますね。

終わりに

大体こんな感じでしょうか。全部で1万字越え、書くのに4日ぐらいかかってしまった。書きたいことはほとんど書いてしまった感じです。なぜ旅に出たのか、どんな収穫があったかは、上を見ればわかるので、もう書きません。とにかく多くのものが手に入ったということです。また自転車の旅をやりますか?と言われると、正直首を縦には振りづらいです。ただ、旅をすることは本当に素晴らしい。大学生の僕にはまだまだ時間があります。上で書いたような、外国に行ったりはまた別として、まだまだ見ていない日本の色んな場所をまわりたいです。最後に、僕を応援してくれた沢山の人に感謝、道中で出会った全ての人に感謝します。

そして1年ちょっと続けた「晩白柚の日常」も、ここで終わりにします。いつだったか「200日書いて終わります」とか書いたけど、結局ぜんぜん届きませんでしたね。以前の「大学受験まっしぐら」と違って、10月というかなり中途半端な時期に終わりますが、それもまたよし。例によってこの日記も本にするつもりです。その本を読んでいる時の自分が、明るく楽しい日々を送っていますように。それではまたいつか。

1987年12月8日、熊本生まれ。高校時代から「晩白柚」というハンドルネームでブログを書いていました。長らくうつ病性障害を患っています。好きなものはビール、ひとり飲み。

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