春の弦、澄んだ音

ちょうど一月前である。9月1日、その日は日曜日だった。僕は祖母とにしくまもと病院にいた。
祖父が8月頭に家の廊下でずっこけ、股関節を骨折。熊本中央病院で手術したあと、8月末ににしくまもと病院へ転院した。我々はその見舞いに来ていた。
彼はもともと肺が弱く、アスペルギルスを患っていた。入院生活の間にそれはいっそう酷くなり、一月ぶりに見た彼はもはや喋ることもままならず、枯れ木のように弱々しい姿であった。


「ここは刑務所のごたる」

消えるような声を祖母は当然聞き取れず、僕が彼の震える口の前に耳をあてて理解した。

「なーん言いよっとね。はよ家に帰ってこなんたい。看護婦さんの言いよらすことばちゃんと聞けば、絶対大丈夫だけんね」

生気のない顔の彼を励まそうと、その場の雰囲気に似合わぬ明るい声で僕は言った。
30分の面会が終わり、彼は入院する自室へ運ばれていった。帰りのエレベーターに乗る前に彼のベッドを見やると、彼は仰向けでこちらを横目に見ながら、腕をゆっくり上げて我々に手を振った。
それが僕が見た生前の祖父の最後の姿であった。

9月12日はたまたま仕事が休みだった。
「じいちゃんが亡くなりました」というLINEメッセージを家のベッドの上で受け取った。しばらく動けなかった。

祖父は10時59分に死んだということであった。15時ごろだったろうか、僕が葬儀場に着いたとき彼はすでに死に化粧をして、棺の中に穏やかに納められていた。ありふれた表現ではあるが、ただ眠っているようにしか見えなかった。

その夜に仮通夜、翌日に通夜、14日に葬儀を行った。複雑な事情のあふれる我が家である。喪主である祖母に代わって僕が通夜と葬儀の挨拶をした。通夜の挨拶は涙がこぼれて仕方がなかった。とにかく舐められてはいけない、祖母に恥をかかせてはいけないという気持ちで、気を張り続けた3日間だった。

実は、7月30日に僕は祖父・祖母と暮らした城南町の家を出て、職場近くのアパートで一人暮らしを始めたばかりだった。それから5日後に祖父は転倒してしまった。俺がまだあの家に残っていたらと考えることは当然ある。彼が震える手で紡いでいた一行日記のノートは8月3日で途切れているが、最後のほうに書かれていたのは「体がきつい」ということと「陵が家を出ていった」ということであった。寡黙な人だったが、僕の身を案じていて、その心配が少なからず今回のことを招いたのではないかと思うと、慚愧に堪えない。

17年ほど前の日記で、イトシマオのお父様が亡くなった時に「父上の血と肉と魂が、彼の血と肉と魂になった」とか書いた記憶があるが、今さらながらそんなに単純なことじゃない。「出会いと別れの中で人は強くなる、って言うのは簡単なことだが難しいことさ」とは言いえて妙である。

ただ、慚愧だなんだと言ったって、祖父の肉体は地球へ還り、彼の魂は遠い北の空へ飛んでいってしまった。ここへはもう戻ってこない。今の僕にできるのは、彼から受け継いだ身体を使って社会と子孫へ奉仕すること。これに尽きると思っている。

なあじいちゃん、俺はあんたが元気になって、いずれ家に帰って来るとばっか思ってたよ。
綺麗好きなクセに、随分たくさん荷物を片付けないまま逝ってくれたね。ちょっとは俺の身にもなってくれよ。
どうにかするしかないけん、なんとかやってくけどさ。
もう少しそばにいてやったらよかったよね。ごめんな。
俺がつけた法名は気に入ってくれたかい。
どっかでまた会ったら、ギターで「湯の町エレジー」弾いてくれよな。

じいちゃん、さよなら。

1987年12月8日、熊本生まれ。高校時代から「晩白柚」というハンドルネームでブログを書いていました。長らくうつ病性障害を患っています。好きなものはビール、ひとり飲み。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です