吐く息が煙草の煙のように白く濃い。凍てつく空気があちこちから顔の肌を刺す。ここは日本の最果て、ここは未だ見ぬ雪国。僕はオホーツクの流氷を見るため、北海道の網走にやってきていた。生まれて初めて踏む北海道の大地。初めての地が札幌でも函館でもなく、網走とはオツな話ではないか‥。
2月25日、夜20時。僕は北海道北東部の女満別空港に降り立った。流氷を見るには、網走のオーロラ号に乗るか紋別のガリンコ号に乗る必要がある。これらの街の最寄りが女満別だという知識だけを得て、僕はここにやってきた。女満別など聞いたこともない。僕は一体どこにいるのだろう?
空港からリムジンバスに乗って30分ほどで、網走市内に辿り着く。道路に車の姿はまばら。道沿いに店の明かりなどはない。一帯は静寂だけが支配し、寒さが一層引き立つようである。
見知らぬ土地の居酒屋に入るのは旅の楽しみである。網走の中心部にある商店街でぽつぽつと店が開いている。あてもなく商店街をさまよい、活気のありそうな「喜八」という店に入った。
鯨の肉をつまみながら網走の酒を2合ほどもらった。隣の席で中国人の家族連れが、メニューを理解できずに店員と問答を繰り返していた。
ほろ酔いになって店を出る。ホテルは商店街からほどなく近いところにある。網走の市街地にはこのホテルとあともう1件しかないようだ。月曜日は休暇を取ったから、このホテルに2泊することになる。はたして明日は流氷を見ることができるだろうか。流氷は気まぐれな生き物のようで、必ずしも沖合に来てくれるとは限らない。一抹の不安を胸に、僕は布団に入った。
翌朝、9時半に目が覚めた。11時に出発するオーロラ号をめがけ港へ急ぐ。朝の網走は見渡す限りの雪、目に映る画面は一面の白である。相変わらず車の姿は少ない。僕の雪を踏む音がさくさくと響く。
オーロラ号の乗り場は道の駅「流氷街道網走」の中にある。チケット売り場で、大人一枚ください‥と言わんとして、手が止まった。係員の後方に掲示された「本日、流氷はありません」という貼り紙。なんということだ‥。オーロラ号のホームページによれば、ほんの2、3日前まで良質な流氷を見ることができた、そして今日も見ることができるはずだった。しかし流氷は非情だ。僕は受付の前で立ち尽くすしかできなかった。
もはや今日、この場にいても意味はない。僕は道の駅を出、網走にあるなにかを求めて歩き始めた。ここから近いところに網走神社があるらしい。まずはそこへ行ってみよう‥。
網走神社は丘の上にあった。真っ白な坂道が遠く先まで続き、その坂道を僕だけが一人登っていく。
神社は雪をまとって、ただただ静寂に包まれていた。
網走神社を後にして、いったん道の駅へ戻る。バス停で周遊バスに乗り、網走監獄へ行くことにした。網走監獄は網走刑務所が現在の地に移るまで刑務所として機能していた。現在はその姿をそのままに博物館として残されている。五翼放射状の舎房は日本最古の刑務所施設であり、牢屋の並ぶ風景はあまりにも生々しい。
しかし網走に住む方々には悪いが、これと言って目を引く観光施設が網走には少ない。まだ夕方前だったが早々にホテルに戻り、部屋で本を読んで過ごすことにした。読んだのは川端康成の「散りぬるを」で、ちょっとしたいたずら心でついには殺人を引き起こしてしまった男を題材にした話だ。彼の文章は戦前、戦後でずいぶん読みやすさが違っているように思う。これは戦前に書かれたものだったのでかなり読みづらかった。どういう話なのかは理解できても、なにを言いたいのかは僕には理解できなかった。
上にも書いたが、旅において知らぬ店で飯を食うのは大きな楽しみである。今日の夜はなにを食べようか。ベッドの上で思案した末、ホテルからほど近い場所にある焼肉屋に行くことに決めた。
ひなびた外観の焼肉屋である。がらりと扉を開け、中に入る。客は少なく、ガスのチューブが繋がったコンロが置かれたテーブルが寂しく並ぶ。いかにも場末な雰囲気の焼肉屋だ。いいではないか‥こんな店で一杯やるのが面白いのだ。
さすが場末の焼肉屋である。2500円でビール3杯とたらふく肉を食い、満足して店を出た。網走に滞在できるのは明日が最後だ。明日こそは流氷を見ることができるだろうか、それは神のみぞ知るところ。一抹の期待を胸に僕は布団に潜った。
翌日、流氷を見る以外になにもすることがなかった僕は、朝からだらだらと身支度をし、チェックアウト期限の11時ぎりぎりにホテルを出た。再び道の駅へ行き、受付の掲示を見る。昨日は「流氷はありません」だった。今日は‥「本日、流氷あり」。東京から網走くんだりまで来て、2泊もしてなにも見れずに帰ったのではなにをしに来たのかわからない。僕はほっと胸をなでおろした。
オーロラ号は砕氷船の一種である。2年前、仕事で南極観測船「しらせ」(オーロラ号と同様に自身の重さをもって砕氷して進む船)に携わっていた僕としては、身をもって砕氷船を体感することができてささやかに興奮した。
オーロラ号が港を出る。僕は甲板に出て、流氷が現れるのを待った。沖合に進むに連れて顔に当たる風がいっそう冷たくなり、船内に戻ってしまいたい気に駆られる。20分ほどして船は流氷帯に直面した。
船が進むと海面一帯が流氷で埋め尽くされ、四方見渡す限りの氷である。カメラのシャッターを切りながら、僕は思った。僕は一体どこまで来てしまったのか。僕は今、オホーツクの洋上で流氷を見ている。限りなく遠くへ来たものだ‥と。
1時間の周遊を終えて、オーロラ号は港へ帰る。僕の旅の目的も果たされ、この旅は終わった。流氷を見た網走。場末の焼肉屋で焼肉を食べた網走。ホテルで時間を潰した網走。たった2泊の網走だったが、なにかしみじみとした思い出に溢れ、1泊の旅より遥かに名残惜しい気分に駆られていた。またいつか訪れる日が来るだろうか。その時は子供でも連れて‥そう思いながら、僕は女満別空港行きのバスへ乗り込んだ。