ルールを疑うことについて

日々の中で誰かが「ルールに反しているのだから、だめなものはだめだよね」と言うことがある。

「だめなものはだめ」ということは世の中にたくさんある。理屈・理由は説明しづらいけれど、人間の道徳に照らしてやってはいけないよね、という物事を「だめなものはだめ」という。「他人を殺すこと」なんてのは「だめなものはだめ」の典型だ。だめであることに理由もクソもないのである。

ということを踏まえると、「ルールに反しているから、だめなものはだめ」という言葉の響きはなにかおかしい。本来、だめな理由が見つからないから「だめなものはだめ」が成立するのであって、ルールに反するか否かはだめかどうかに関係しない。実際の世の中には、ルールに反していないけど非道徳なものがあったり、逆にルールに反しているのに明らかに正義というものだって存在する。

なにが言いたいかというと、「ルールだから」という言葉は議論のうえでなんら盾にならないということだ。「ルールなんだから従え」と声高らかに叫ぶ前に、そのルールが道徳と倫理に照らして本当に正しいのか・本当に信じてよいのか疑い、場合によってはルールを是正する声を上げるべきだと僕は思う。

1995年まで、我が国の刑法には尊属殺重罰規定があった。法令を勉強した人なら誰でも知っているだろう。実際は1973年以降は適用されていないので、死文化したのは1995年よりずっと前ではあるが、日本がとっくに近代化してしばらくしたあとも、かくの如き前時代的な条文はずっと残り続けていた。

尊属殺重罰規定は最終的に1973年に違憲判決が出た。事件のおおまかな経緯は次のような具合だ。物心ついたときからずっと実父に犯されつづけてきた女性が、自分の幸せをつかむことができないまま実父との間に5人の子をもうけた。29歳のときに運命の男性と出会い、彼との結婚を決意したが、激昂した父が怒り狂って彼女を犯したため、彼女はその場にあった紐で実父を絞殺してしまった。聞くに耐えない事件だが、1973年よりも前の日本においては、どんなに斟酌すべき事情があろうが「ルールはルールだから」ということで、尊属殺には問答無用で通常の殺人よりも重い刑(死刑か無期懲役)が課されていた。

今日の僕たちの倫理観に照らせば、尊属殺の重罰を規定した刑法200条はどう考えてもおかしいと思われるので、違憲になって削除されるのは当然だ。だが法令の解釈は時代や環境によって簡単に変わる。これから10年後にまた刑法200条が復活して、先のような痛ましい事件が起こったとき、あなたはこの女性に「まあルールに反したんだから重罰が課されるのもしょうがないんじゃね?」と言えるだろうか。

ルールを盲目的に正しいと信じることは良くない。このルールは本当に正しいのかと疑い、正しくないと信じるならば声を上げるべきである。だがわれわれ日本人はその歴史的経緯から言って、与えられたルールを盲信し・上げるべき声は棚に上げて、「法律で決まってんだからしかたないじゃん」と言いがちな気がしている。それはもはや考えるのを止めているだけだ。

おろかでなにひとつ正常な判断ができない人間が作っているのだから、そのルールが絶対に正しかったり絶対に誤っているということはあり得ない。今日の社会を形成している無数のルールは、最初から完全無欠だったわけではない。作ったあとで「やっぱなんかこれ違うわ」と削除されたり修正されたものがたくさんある。大事なのは、誰かが声を上げたことで正されたルールこそが社会の根幹を成していることを理解して、常に周囲を疑ってかかることではないか、と思っている。

1987年12月8日、熊本生まれ。高校時代から「晩白柚」というハンドルネームでブログを書いていました。長らくうつ病性障害を患っています。好きなものはビール、ひとり飲み。

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